●この間、吉祥寺で偶然高田渡をみた。そのことを思い出している。
高田渡はギターひとつで30年くらいはやっているのだろう。やっていることが全く変わらない。ただ頑なにそれを続けている。実際その本人は頑なにというわけでは全くないのだろう。でも周りからみたら、もうそういうのこそが鉄の意志。アルコールもやめたらしいし。やっぱりそれは鉄の意志だ。
「タカダワタル的」という映画が公開している。なにがなんでも観たい。
もうタカダワタル的ということがどういうことなのか。これを観ればわかるとは思うのだけど、予習もかねて「タカダワタル的」がどういうことなのか、考えてみる。
「ただの酔っぱらい」とか、「無為の人」とか、そういう形容詞はぜんぜんいらない。そんな見たまんまじゃなく、タカダワタル的というものを解釈しようとした場合、もうこれにつきるのではないか。
T・ワタル。
勘のいい人はすぐに分かると思うが、もちろんT・コムロとおなじような想いをこめて呼んでもらって構わない。そんな想いがない人も、とりあえずは呼んで欲しい。
T・ワタル。
小室哲哉がTMネットワークの解散から、気がついたらT・コムロになっていた。コムロファミリーに抵抗がある人は、コムロじゃなくても別にいい。小山田圭吾がコーネリアスとかいったりポストロックとかいったりしてたのと、同じ線上に置いてみてください。T・ワタルを。
そうするとおのずとタカダワタル的というものがどういうことなのか、わかってくるのではないか。
で、もってるギターはもうフォークギターじゃなくて。サイドに鍵盤ついているあれだ。MIDIも同時に発信できちゃうようなアレ。あれを引きこなせるのはACCESSぐらいだったと思う。ああ。どこ行ったんだろうACCESS。アクセス。アクセスだったよな、確か。大好きだった。中学校から高校まで、僕にはもうアクセスしか聞いた覚えがない。スチャダラだとか、プリティ・シングスだとか、トニー・ジョー・ホワイトだとかを聞いていた周りの連中をあざけるように僕はアクセスしか聞いていなかった。右手にはアクセスのベストテープがはいったカセットウォークマン、左手には銀色夏生。当時、岐阜ではこれが一番オシャレ。岐阜で言うオシャレというのは、首都圏で言うオシャレとは若干違う。
うまくは言えないが、もっとこう人間としてのピュアな部分が染みこんでいるのです。
岐阜の高校生はクラブなんて行かない。行くわけがない。行くクラブがない。といろいろ理由はあるが、とにかく岐阜っ子の夏の一大イベントっていえば長良川花火大会。もうこれに女の子と行けるかどうかっていうのが、もうステイタス。それだけの為に岐阜の高校生は生きている。
と、岐阜の話はどうでもよくって。
問題はT・ワタルなのです。
タカダワタルがMIDIギターを持っていたら、もうそれは高田渡じゃない!、なんて思う人もいるかもしれない。でも実は全然そんなことない。アクセスがフォークギター持っていたらダメだよ、間違いなく。でも高田渡がMIDIギターもっていても全然もんだいない。そういう場所がタカダワタル的。
●で、そういうの素敵だなあ、と思って真似しようと思ってもそうそう真似できるものではない。自分がタカダワタルじゃない場合、もうサム(アクターズスクール)サイドから事を始めないといけない。それは大変むずかしい。
●Aさそって観に行こう。
●なんて言ってるような余裕は全然ないのだけど、昨日のTちゃんからのコメントに影響をすこぶる受けた。
「心+亡=忙」
なんでこんなこと言うのさ。すげえ怖い。
投稿者 ta : 2004年4月12日 23:13