2005年11月11日 (金) 

チェルフィッチュ「目的地」

[ でかける]

●昼、代々木上原へ。打ち合わせ。
電車で行くつもりだったのに、例によって遅刻しそうになってしまった為、急遽自転車。
甲州街道を全速力で走りきると、13分程で幡ヶ谷に着いた。意外に近い。

●一度、自転車を置きに家に戻ってから、駒場アゴラ劇場へ。
今夜は楽しみにしていたチェルフィッチュを見るのです。
チェルフィッチュみるの、初めてです。
感想から言うと、よく分かんない。けど、すげえ面白い。
イスだけがポツンと置かれているとてもシンプルな舞台装置。
よく言われている超口語的なセリフってのは一体どれほど口語的なのかと期待していた。そしてやっぱり驚いた。過剰に口語的なセリフが舞台で話される違和感。
猫を飼おうかどうしようか。子どもができたらしい。といった何も起こらない日常が港北ニュータウンを舞台に描かれているようだ。ようだ、じゃなくて、そういう説明的な背景部分のテキストは全て背面の壁にプロジェクターで投影されている。そのテロップの進行を俳優が見ながら自分たちもセリフを発してみたり、発してみなかったり。
序盤から中盤、俳優のセリフは、違う役者が同じ言い回しを受け継がれる。誰が誰という設定は不確かなまま、そのセリフの回転によって物語が進行していく。ゆったりというと変だけど、時間が半分逆回転しつつ一回転進むというような、ここらへんのサイケぽさが心地いい。
舞台上で展開されている動き、セリフとは逆にあくまで説明に徹する港北ニュータウンについてを記述していくテロップ。
そして徐々に口語的なセリフや、その展開にも慣れてきたころ、
何故か爆音でトータスですよ!
全てをぶち壊すかのようなやけに音質の悪いトータス。
このトータスって一体。。?
そしてまた何事のトータスもなかったかのように劇は進行する。

目的地というタイトルとニュータウンというキーワードで普通に考えれば、高度経済成長期を得て現在に至る日本(東京)のある状況を「ハイ。じゃここらへんで」と切って見せたと言えるだろうけど、ていうかこの劇、全然そんなものじゃない気がする。
かといって、どんなものが説明できない。
「この部分、この部分がどうだから「目的地」はこんな舞台で面白かった。」
ということは何一つ言えない自分が不甲斐ない。
とりあえず「あそこに目的地があるよ。だから走ろうね。」というものではなく、「ほら。今歩いてる。歩いてるよ。」といい残すだけというようなかなりアナーキーな舞台だった。という意味不明の感想。
口語的だとかダンス的な身体表現だとかということよりも、見終わった後、ずっと残っている心地よい違和感がある。


投稿者 ta : 2005年11月11日 22:45

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