数カ月前に書いたけどポストしてなかった。先日、百ヶ日のお参りが済んだと父親からメールがきた。
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おばあちゃんの葬式に参列してきた。父親の母親だ。おじいが死んでちょうど10年目の今年、92歳と10ヶ月で年子おばあちゃんは天に召された。このおばあに対する僕の思い入れは相当なもので、そんじょそこらのおばあちゃん子には負けない自負すらある。おばあが死んで早ひと月、本当におばあの孫で幸せだったと思えることの幸せを噛みしめながら生活してる。
祖父母は、実家から50m離れたところで和菓子屋を営んでいた。両親が共働きだったこともあり、僕は小中高の大半の日々、おばあの作ってくれたご飯を食べて暮らしていた。中学生の時、おじいがボケ始めたのをきっかけにに和菓子屋をたたんだ。その時の饅頭(金蝶饅頭という麹饅頭)の値段がたしか1個80円だったと思う。その一個80円の、昔はもっと安かっただろう、饅頭を何万個と売って、僕の父親と2人の叔母を育てたおじいとおばあ。さらに姉と僕の面倒もみてくれたのがおじいとおばあだった。
僕が結婚して娘ができてからも、実家に帰っておばあに会えばまだ一歳たらずの曾孫を前に、「本当によくここまで育てたね。頑張ったね。ありがとうね。」「さやかさん、ほんとうに頑張ったね。ありがとうね。」と、自分は3人の子供と2人の孫を育てたことを全く他人事のように、いつも妻と僕を褒めてくれた。
おばあの体調が急変した、と僕らが気がついたのは、去年の7月だった。娘の満一歳の誕生日を祝うため、箱根で1泊の小旅行が企画され、僕らは両親と箱根の宿に集合しチェックインした直後のことだ。実家の留守を預かるために、大阪から帰ってきてもらった姉からの電話。「おばあちゃんが倒れている!」。驚いた。姉が実家に着いた時には、おばあはお腹が痛いとうずくまっておりそのまま痛みに耐えられず失神してしまったそうだ。とりあえず姉には救急車を手配してもらい、父親はその日のうちに実家へトンボ帰り。僕らも翌日実家へ戻った。おばあは、腸閉塞の疑いアリとのことで搬送先の市民病院にそのまま入院。後から分かった事だが、この時既におばあの体は相当に蝕まれていた。大腸か盲腸あたりの癌がかなり進行していたらしい。当然倒れるまでにも相当な痛みがあったはずだが、人に心配をかけまいとするおばあはそれを誰にも言わずにひとり我慢し続けていた。きっと父母が箱根に出発する朝も痛みがあったのだろう。
そしておばあは10月まで入院し、その後は自宅治療ということで実家に帰ってくることができた。といっても、自分の口から食べ物は一切とることができず栄養はすべて点滴という点においては入院時代と変わりない。点滴を交換するのは医療免許がいるため、両親は、毎日近所のお医者さんから看護師さんに来てもらう手はずも整えた。そして誰かが必ず家にいる必要があるため、共働きの両親は二人のスケジュールをあわせ仕事を調節する生活に変えた。
点滴での寝たきりの生活は少しずつおばあの体力を奪っていった。僕もなるべくおばあの顔をみようとできるだけ実家に足を運んだが、そのたびに少しずつおばあは痩せていく。寝たきりの闘病生活にも関わらず、おばあの意識は全くしっかりいて、認知症の兆候も全くみられない。それは嬉しくもあり、苦痛をそのまま受け止めていると考えると痛々しくてしょうがなかった。そしてそんな生活が100日を超え冬になった。ちょうど立春も過ぎた頃、利尿剤では排出できない水分が徐々に溜まっていったおばあの両足はまるで風船みたいにパンパンに膨れ上がり、その膨れ上がりが上半身にもすこしずつ現れはじめた。お医者さんによると、がん患者の末期はこうなるそうだ。そして2月8日午前11時15分、母親と二人の叔母が見守る中、静かに息を引き取った。父親はちょうど席を外していた時だったらしい。
僕は、それから15分後の11時30分に、父親からの電話でその事実を知らされた。年末から友人知人の悲しい訃報が続いていたため、感覚が麻痺していたのかもしれない。不思議と悲しさはなかった。ずっと前から心の準備はできていたからなのかもしれない。その日のうちか翌日には実家に帰れるように、急いで仕事先などにスケジュール調整の連絡を淡々とこなした。「祖母が他界したため…」「祖母の葬儀の為…」とただ淡々と状況を伝えた。全く悲しくなかった。不思議なものだ。
ただその日の夕方、「おばあちゃん」という言葉を自分の口から妻に発した瞬間、せきをきったように涙が止まらなくなった。
おばあちゃんが死んじゃった。
翌日、妻と娘と実家に戻り、おばあと対面した。癌の苦しみから解放された顔は、最近のおばあより何歳か若返ったようにみえる。また涙がでてきた。ぐしゃぐしゃに泣きじゃくる僕を不思議そうに娘がみている。おばあと僕を交互にみつめている。いくら考えても、どうにも意味がわからいようだ。
その日の夜は、おばあの遺体が安置されている和菓子屋の仏壇間で父親と2人で寝た。父親が寝たあと、こっそりおばあの寝ている隣の部屋へ。おばあと2人きりで向い合い、昨日皆の前では言えなかったことを言った。ありがとうございました。今まで本当にありがとうございました。と声にだして何度も言った。人は本当に泣きじゃくると嗚咽で口を閉じることができないらしい。服とズボンがヨダレと涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった。
翌日の朝、目が覚めると隣に父親はおらず、代わりにとなりの部屋から鼻をすする音が聞こえた。
通夜と葬式を終え荼毘にふし、東京へ戻ってきて仕事を再開してしばらく経つがまだ悲しい。実家に帰ってももうおばあがいないということがよく分からない。よく分からないな。この後もうずっとありがとうございましたとしか言えないんだろうと思う。
投稿者 takeyama : 2010年5月27日 02:35