2011年9月23日 (金)

荷物片付けの日々

引越し荷物が届いたものの、どこから手をつけていいのか分からない状況。子のおもちゃだけは瞬く間に開封されていく。

引越し

はなまるうどんで昼ごはん。はなまるはもちろん、こないだ北谷のほうに丸亀もみつけたし、うどんライフには困らんな。一風堂がないのだけが心残り。

沖縄のはなまるうどん

買い出しにきた無印のリビングが一番居心地いい。。

沖縄 無印

仕事部屋からの風景。家の横にある茂み(というか、ほぼ森)には、ハブが出るらしいので気をつけてね。と階下に住む人からアドバイス。どう気をつけていいのか分からないし、ハブへの恐怖が日に日に募る。

沖縄

少しずつ片付いてきたよ。

引越し02

 

投稿者 takeyama : 06:50 | パーマリンク

2011年9月20日 (火)

牧志公設市場でご飯

ブログ更新おくれておりますー。

沖縄着いたー!

那覇空港

初日は牧志の公設市場で晩御飯。何から何まで新鮮。

とりあえず片っ端から沖縄ぽいもの頼む。沖縄ぽいもの頼んでおけば県産だろう。

そして市場の掲示板に貼ってあった新聞よかった。

購読したい。

牧志公設市場

牧志公設市場 見学新聞

牧志公設市場 見学新聞

牧志公設市場 見学新聞

 

投稿者 takeyama : 23:43 | パーマリンク

2011年9月10日 (土)

震災と移住先探し3 沖縄への引越し

そして沖縄は那覇に物件が決まったのだけど、今度は賃貸契約から引越し屋の手配まで、これまで経験した都内での引越しとは全く勝手が違うことが色々わかってきた。

まず沖縄の賃貸契約には、こちらの連帯保証人とは別に、保証会社との契約が必要になる。これは初めて聞いた制度なのだけど、沖縄では慣例らしい。じゃあ連絡保証人いらないんじゃね?とも思うのだが、そういうわけではないらしい。保証会社というくらいだから、こちらが家賃を滞納した時に、その保証会社が立て替えて大家に払うというようなシステムなのだが、どうやらその立て替えた代金に結構な利率がついてこちらに請求されるというような事らしい。そしてその請求先が最初は賃借人、その次が連帯保証人ということだ。まあ毎月キチンと家賃を払えば何の問題もないことだが、仮に家賃を払わない場合、東京であれば「大家さん〜あと3日待ってくださいよ〜」というようなエクスキューズもありうるが、沖縄の場合そんな相談のタイミングすらなく間髪いれずにリボ払いされてしまうというような感じだろうか。

そして賃貸契約と並行して引越し屋の手配を行わなくてはならない。これも都内など近場への引越しとは桁違いに金がかかる。とりあえず有名どころ5社ほどに見積もりをお願いしたところ、(車の運搬は除いて)上は45万から下は30万という見積もりが出た。アホか。そんなにかけれるかってことで、色々リサーチした結果、日通の単身パックを利用するのが一番安いんじゃないかということになった。しかしこの単身パックを利用する場合、エアコンの取り外し取り付けから業者を手配し、荷造りダンボールも自分で買いに行き、自分で箱詰め、大物家具の養生も自分でやらなくてはいけない。それは明らかにキャパオーバー。自分一人では到底無理だと、早々に諦めた。結局日通さんと交渉し、エアコン、食洗機、BSアンテナの取り外しと取り付け込で25万で落ち着いた。車の運送は、東京が記録的豪雨の真っ只中、自分で有明フェリーまで車運んで6万(沖縄着の飛行機に合わせて空港から車乗れるのはよかった)。それにしても高いよ沖縄。。

記録的豪雨

そこからはひたすらに引越しにむけての日々。今年の夏は断捨離の夏だった。家具、電化製品を売ったりあげたり捨てたり。暖房器具は全部友達にあげた。漫画はブックオフに売ったり、アート、文学系の本はカウブックス(シゲさんありがとう!)に買い取ってもらった。服も古着屋に売ったりあげたり。冬物はほとんど手放した。でも減らないんだ荷物。。全然減らない。取捨しながらダンボール詰めしていく修行の日々は、途中からもうどうでもよくなった。もういいじゃん向こうで捨てれば。手当たり次第に詰め込んでいくパッキングマシンと化した。それからは結構早かった。何とか引越し荷物搬出日には間に合った。それにしても本棚などの大物解体のヘルプにハラジュンきてくれなかったらヤバかった。ありがとう。といっても最終的に自力で詰めたダンボールは70くらい。荷物搬出当日に業者がパッキングした箱と大物合わせると150くらいのリストになって驚いたわ。。

ブックオフ断捨離

沖縄への引越しにはさらに問題がある。海運のため、荷物を発送してから引越し先への搬入までの時差が1週間ほどある。その一週間をどこで過ごすのか。夏のこの時期、エアコンも冷蔵庫もない東京の部屋で過ごすか、沖縄に前乗りして宿暮らしするかの2択になる。東京で色々やらなきゃいけないこと残ってるし、宿代もったいないので空っぽの部屋で1週間過ごすことにした。幸い持って行かないソファーと布団が1つずつあったので、まあ寝るところだけは何とかなるし、食事はここ半年通り基本外食。ネットはwimaxとノートPC、という編成で望んだ。驚いたことにこれが予想以上に快適だった。快適というと少し違うけど、そんなに不自由なかった。

じゃあ今回の断捨離戦争をかいくぐり、沖縄に送られたダンボール150箱は一体何だったんだろうか。

荷物搬出後

そして東京を離れる2日前、妻の実家から妻子合流。一ヶ月半ぶりのリコ玉、またでっかくなってる。半年ぶりにこれからは一緒に住める。嬉しい。同じアパートのお友達ともまた会えて遊べてお別れできてよかったね。それにしても東京での最後の住居となったこのアパート、古い団地みたいなところなんだけど、家族住まいが多くて素敵な人達ばかりで本当よかったな。アパート内での付き合いがこんなにあるところ他に知らない。最初駒沢なんてコマザワンヌしかおらんやろどうせって思ってたけど、全然違った。公園以外とくに何もない街だけど住みやすかった。また東京住むならこのアパートに住みたい。東京最後の晩には、お隣の安本家の部屋でご近所さん集まってのご飯会。玄関の靴が大変なことになってる。

リコ玉とジョー

靴たくさん

泰三さんと石原くん

というか、今回の引越し、いろんな人にお世話になりました。仕事先の人には無理言って色々スケジュール調整してもらったり、友達は引越しの手伝いしてくれたり、ご飯会してくれたり、プレゼントまでくれたり、もう感謝してもしきれません。本当にありがとう。その御恩には沖縄での宿を提供するということでお返しします!でも東京来るときには泊めてください。

やっと引越しまで追いついた〜。

つづく

 

投稿者 takeyama : 07:48 | パーマリンク

2011年8月23日 (火)

震災と移住先探し2 沖縄へGO!

そして東京で単身赴任的生活 or 家族で移住という選択になれば、そりゃもちろん後者を選ぶ。そして移住先を探すことになった訳だ。岐阜出身の田舎者といってもかれこれ東京に12年ほど住み、東京でしか仕事をしたことがない人間にとってみれば首都圏以外の地域は完全に未知。アウェー感ハンパないのは簡単に想像できる。

でもどうせ移住するなら楽しみたい。これまでとはちょっと違うところに住んでみたい。なおかつ問題の原発から地理的にも一番遠いところということで俺の希望は南国・沖縄!!沖縄はさすがに遠い!という妻を説得し、沖縄に行くことにはなった。そしてひとまず目指すところは決まったものの、そうそう軽いノリで行ける場所ではない。新居を探しに行くのも一苦労。結局5月、7月とそれぞれ一週間程下見を兼ねて沖縄に行ってきた。5月の旅行は現地の飲み屋で夫婦バトルが勃発。その旅行は壮絶な終焉をみせた。もう沖縄はダメかもしれない。そんな風に思ったこともあった。諦めかけた沖縄を、どころか様々を。そんな谷もあり山もありみたいなことを経て、子供の誕生日もあった7月は物件探しに集中!子はカスガイ!!!滞在一週間で沖縄本島、北は今帰仁村から南は南城市までざっと25件ほどの物件をみた。

内見した25件の物件のうち、僕が本当に住みたくなった家があった。首里の物件で物凄く魅力的な物件があったのだ。物件が魅力的というか家主が魅力的だった。キジムナーみたいな建築家のオジイが勝手にどんどん改築していっているその物件は、まるでフンデルトヴァッサーみたいな意味不明な様相を呈しており、僕らが内見したまさにその時もキジムナーはさらに家を改築しようと工務店のおっさんとワイワイ相談している最中だった。そんな家の間貸し物件に物凄い魅力を感じていた。妻との相談の結果、その物件は日当たりや広さで諦めることになったけど、沖縄に住むことになった暁には必ずこのキジムナーと友達になりたいと願っている。

7月の中程に東京に戻り、東京の家に2日ほど滞在した後、妻子はまた妻の実家に戻っていった。今度会えるのは沖縄に引っ越す時だ。

沖縄では、これまでの東京都内での引越しのように数年のスパンで趣味のように部屋探しをしドキっと一目惚れするような物件に出会えたわけではない。しかし一回の渡航でウン十万もかかるような場所にそうそう物件探しにいける訳もなく、仕事のスケジュール的にも厳しいわけで、沖縄の家は今回探した物件の中で決めるしかなかった。いきなり田舎に行くという選択肢もあったが、本土から来た沖縄ビギナーがいきなりローカルエリアに溶け込めるのか、まずは東京に事務所を残して行き来しつつ仕事していこうというプランだから最初は空港に近いほうがいいのではないか、と考えた結果、最初は手探りに少しずつ沖縄を感じていこうということで那覇市に住むことにした。本当は庭で家庭菜園ができる平屋建てが希望だったのだけど、やはり那覇近郊ではなかなか条件に合う物件もなく、庭と平屋を諦めた。戸建て物件で上と下で別世帯が住む物件に決めた。どうかもう1世帯が素敵な人達でありますように。そう思うと東京の今のアパートは本当に最高だ。素敵な家族しか住んでない!本当に離れたくない!

これから沖縄物件の賃貸契約もろもろや引越し屋きめたり、仕事先に連絡したりと色々しなきゃいけない。引越しは9月頭に決めた。

マジで片付け面倒くさい!そして金かかるんじゃボケ!!東電許さん!!

つづく

 

投稿者 takeyama : 04:45 | パーマリンク

2011年8月 3日 (水)

「コクリコ坂から」観て泣いたよ(宮崎吾朗監督)

コクリコ坂から 公式サイト http://kokurikozaka.jp/

こないだジブリの新作「コクリコ坂から」を男2人で観てきた。最初自分一人で観に行くつもりでウェブで指定席買ってたので、昼飯一緒に食べてて何となく一緒にいくことになったキヨちゃんはチケット売り場に並んでチケット買った。

結果として本当これで助かったというか本当隣同士じゃなくてよかったわ。
ていうくらいに泣いたよ俺は。

震災起こるの分かってたの?!というくらいのピンポイントなテーマに時代背景に挿入歌。この時代を生きていた祖父母の世代と直接触れ合っていたから、頭ではなく感覚としてこの時代の空気がスーッと胸に入ってくる。そんな気がしたんだけどそれはアレでしょうか。おっさんの勘違いでしょうか。

宮崎吾朗監督の前作は本当にジブリ史上最高の駄作だと思うのだけど、今回素晴らしすぎて前作が改めて気になってきた。前作ゲド戦記はテーマがかなり高尚で、だがその難しいテーマにあえて挑んだ結果、途中で「もう面倒くせっ!言葉でそのまま言っちゃうよ俺は!」というようなある種気持よさすら感じる諦めがあった。

今作との違いは大きい。今作はそもそも言葉にできることしか描いてない。宮崎駿的な考えさせるマージンを残すという曖昧さがない。そういう意味で何も考えなくていいリラックス感。完全に見聞きできるストーリーの中に入り込める快感がある。でもそれ結局同じ事というか方法が違うだけで着地点同じみたいな。終盤の畳み掛けや過剰な音楽なんかもジブリっぽくないっていうか結構いい意味でえげつなかった。サマーウォーズ思い出した。

個人的にはカリオストロへのオマージュのように感じた坂のシーンが一番ヒット。

 

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投稿者 takeyama : 00:56 | パーマリンク

2011年8月 2日 (火)

震災と移住先探し1

震災どころか年をまたいでも全く更新してなかったけど、ぼちぼち再開。

2011年を迎えたと思ったのもつかの間、3.11の震災、そして原発。そこから心の時間はほとんど止まったままなんだけど、当たり前に時間は進むし生活は進むし子供はどんどん育っていく。ウチの場合、3/15以来、妻子は妻の実家の富山に避難してる。僕は東京で働きながら月に一度くらいの頻度で妻子に会いに行くみたいな状況がかれこれ5ヶ月続いている。

まあ放射能被曝にしきい値はないらしいのでリスクを避けるという意味では、特に小さな子供は逃げられるならできるだけ遠くに逃げたほうがいいし。そして遠くに逃げたほうが周りの状況もピリピリしてないだろうから、そういった意味でもストレスが少ないのかなと思う。

その点では夫婦間に意見の相違がなかったのは不幸中の幸いなのかもしれないが、こんな状況をいつまでも続けるわけにはいかない。考えられる選択肢としては、東京に妻子が戻ってくるか、どこか移住先を見つけて家族で移り住むか。その2拓だと思っていたのだけど、どうやらそうではなかったらしい。妻はもう東京に戻る気はないらしい。

僕の今の見解は、外部線量で言えば東京も富山もさほど違いはなく、しいて言えば食品の流通経路が東京の場合ほとんど東北・北関東からのものになる可能性が高い。でも事故後一ヶ月のタイミングで政府が的確な処置をしなかったばかりか、基準値をあげたため、放射能まみれの食肉牛から野菜からあげくは腐葉土までが全国にばらまかれているというのが現状のようだ。そうなるともう九州から野菜取り寄せたってそれがOKなのかどうなのか分からないレベルだろう。二次的なストレスなどを考えなければ、東京でピリピリとした緊張感の中、食品その他に気を使いながら暮らしている方が安全なんじゃないか。西日本ではきっと何の危機感もなくなんとなく安全だと思い、スーパーに並んでる野菜や肉を買っているだろう。そんな人達の方がもしかしたら内部被曝のリスクが高いような気さえしてしまう。

まあそんなことを1人で考えててもしょうがない。そんなことを家族で話し合えるような場を、まずは場所を、家族は一緒にいなくては話もできないのだ。

というわけで移住先を探すことになったわけだが、それはもうかれこれ数カ月前の話、それからというものお互いの実家を巻き込み、夫婦間でもバリバリバトル全開の日々をこなしながら、仕事もそこそこしながら、とにかく探した。

つづく

 

投稿者 takeyama : 02:28 | パーマリンク

2010年11月29日 (月)

中目黒 かすうどん 田中

事務所近くにある「かすうどん 田中」に初めて行ってきた。

かすうどん 田中

初回なので普通のうどんにするべきか悩んだが、カレーうどん頼んだ。ゴン太な麺はそんなコシがあるわけではないが、もちもちしててうまい。あとカレーうどんなんだけど、ダシがきいてて美味かった。かすうどんって何かと思ったら、かすってホルモンの干物みたいなものだった。見た目油揚げみたいなんだけど、これがまた噛めば噛むほどでうまいうまい。

替え玉やご飯も追加で頼める。しかも無料。

最初の注文はうどん1玉だったのが、結局2玉プラスご飯を完食してしまった。炭水化物ばんざい!

うどん屋と併設してる串揚げ屋も美味そう。ここで忘年会してもいいな。

投稿者 takeyama : 23:46 | パーマリンク

2010年9月 3日 (金)

ニホンザルをよく見ましょう@地獄谷野猿公苑

こないだといっても数ヶ月前、長野・渋川温泉いったついでに近くにある地獄谷野猿公苑行ってきた。

地獄谷野猿公苑ホームページ

天然温泉にはいる野生のサルに近づけるというのがウリの公苑。野生のサルが温泉に集ってきてるというよりも施設のおっさんがまくエサに期待してたむろしているといった方が正しい。とはいってもやはり放し飼いのサルの群れの中を歩くことはそうそうない。ノミ取りをするいたってダウナーな猿どものすぐ横を奴らを刺激しないように歩く。立て札には「猿とは長い間目を合わせないで下さい。敵意があると思われます。」との注意書きが。言ってるそばから娘、猿をガン見。かなりスリリングな体験だった。

野猿公苑ライブカム

歩くこと100m程、猿の温泉にたどり着く。まず目に飛び込んできたのは「インターネットで中継中!」という告知が嬉しい据え置きカメラ。これでもうここに来なくてもいつでも温泉につかる猿みれるね。やったね!

お土産屋に貼ってあったニホンザルのイラスト付き解説の読み応えが凄かった。一番の見どころだったと言ってもいいんじゃないか。


ニホンザルをよく見ましょう

顔の色 暖.jpg

リンゴ洗い いかく・おどし

泣きっつら みつめる

ひなたぼっこ しっぽをあげる

端を歩く いっちゃだめ

しかられる あまえる

遊び 毛づくろい

寝る おんぶ

子守 だだをこねる

木ゆすり ケンカの仲裁

マウンティング 手・足

しりだこ ほほぶくろ

投稿者 takeyama : 15:29 | パーマリンク

2010年5月27日 (木)

ぐるなび 観光食材レストラン

最近の仕事紹介。お手伝いしたのはちょっと前なんですが、ブログにポストしてませんでした。

ぐるなびの企画サイト、観光食材レストランのサイト制作しました。

全国各地の食材を東京でめぐる【観光食材レストラン】


全国各地の食材を東京でめぐる【観光食材レストラン】 01


全国各地の食材を東京でめぐる【観光食材レストラン】 02

投稿者 takeyama : 03:02 | パーマリンク

おばあのこと

数カ月前に書いたけどポストしてなかった。先日、百ヶ日のお参りが済んだと父親からメールがきた。

ーー

おばあちゃんの葬式に参列してきた。父親の母親だ。おじいが死んでちょうど10年目の今年、92歳と10ヶ月で年子おばあちゃんは天に召された。このおばあに対する僕の思い入れは相当なもので、そんじょそこらのおばあちゃん子には負けない自負すらある。おばあが死んで早ひと月、本当におばあの孫で幸せだったと思えることの幸せを噛みしめながら生活してる。

祖父母は、実家から50m離れたところで和菓子屋を営んでいた。両親が共働きだったこともあり、僕は小中高の大半の日々、おばあの作ってくれたご飯を食べて暮らしていた。中学生の時、おじいがボケ始めたのをきっかけにに和菓子屋をたたんだ。その時の饅頭(金蝶饅頭という麹饅頭)の値段がたしか1個80円だったと思う。その一個80円の、昔はもっと安かっただろう、饅頭を何万個と売って、僕の父親と2人の叔母を育てたおじいとおばあ。さらに姉と僕の面倒もみてくれたのがおじいとおばあだった。

僕が結婚して娘ができてからも、実家に帰っておばあに会えばまだ一歳たらずの曾孫を前に、「本当によくここまで育てたね。頑張ったね。ありがとうね。」「さやかさん、ほんとうに頑張ったね。ありがとうね。」と、自分は3人の子供と2人の孫を育てたことを全く他人事のように、いつも妻と僕を褒めてくれた。

おばあの体調が急変した、と僕らが気がついたのは、去年の7月だった。娘の満一歳の誕生日を祝うため、箱根で1泊の小旅行が企画され、僕らは両親と箱根の宿に集合しチェックインした直後のことだ。実家の留守を預かるために、大阪から帰ってきてもらった姉からの電話。「おばあちゃんが倒れている!」。驚いた。姉が実家に着いた時には、おばあはお腹が痛いとうずくまっておりそのまま痛みに耐えられず失神してしまったそうだ。とりあえず姉には救急車を手配してもらい、父親はその日のうちに実家へトンボ帰り。僕らも翌日実家へ戻った。おばあは、腸閉塞の疑いアリとのことで搬送先の市民病院にそのまま入院。後から分かった事だが、この時既におばあの体は相当に蝕まれていた。大腸か盲腸あたりの癌がかなり進行していたらしい。当然倒れるまでにも相当な痛みがあったはずだが、人に心配をかけまいとするおばあはそれを誰にも言わずにひとり我慢し続けていた。きっと父母が箱根に出発する朝も痛みがあったのだろう。

そしておばあは10月まで入院し、その後は自宅治療ということで実家に帰ってくることができた。といっても、自分の口から食べ物は一切とることができず栄養はすべて点滴という点においては入院時代と変わりない。点滴を交換するのは医療免許がいるため、両親は、毎日近所のお医者さんから看護師さんに来てもらう手はずも整えた。そして誰かが必ず家にいる必要があるため、共働きの両親は二人のスケジュールをあわせ仕事を調節する生活に変えた。

点滴での寝たきりの生活は少しずつおばあの体力を奪っていった。僕もなるべくおばあの顔をみようとできるだけ実家に足を運んだが、そのたびに少しずつおばあは痩せていく。寝たきりの闘病生活にも関わらず、おばあの意識は全くしっかりいて、認知症の兆候も全くみられない。それは嬉しくもあり、苦痛をそのまま受け止めていると考えると痛々しくてしょうがなかった。そしてそんな生活が100日を超え冬になった。ちょうど立春も過ぎた頃、利尿剤では排出できない水分が徐々に溜まっていったおばあの両足はまるで風船みたいにパンパンに膨れ上がり、その膨れ上がりが上半身にもすこしずつ現れはじめた。お医者さんによると、がん患者の末期はこうなるそうだ。そして2月8日午前11時15分、母親と二人の叔母が見守る中、静かに息を引き取った。父親はちょうど席を外していた時だったらしい。

僕は、それから15分後の11時30分に、父親からの電話でその事実を知らされた。年末から友人知人の悲しい訃報が続いていたため、感覚が麻痺していたのかもしれない。不思議と悲しさはなかった。ずっと前から心の準備はできていたからなのかもしれない。その日のうちか翌日には実家に帰れるように、急いで仕事先などにスケジュール調整の連絡を淡々とこなした。「祖母が他界したため…」「祖母の葬儀の為…」とただ淡々と状況を伝えた。全く悲しくなかった。不思議なものだ。
ただその日の夕方、「おばあちゃん」という言葉を自分の口から妻に発した瞬間、せきをきったように涙が止まらなくなった。

おばあちゃんが死んじゃった。

翌日、妻と娘と実家に戻り、おばあと対面した。癌の苦しみから解放された顔は、最近のおばあより何歳か若返ったようにみえる。また涙がでてきた。ぐしゃぐしゃに泣きじゃくる僕を不思議そうに娘がみている。おばあと僕を交互にみつめている。いくら考えても、どうにも意味がわからいようだ。
その日の夜は、おばあの遺体が安置されている和菓子屋の仏壇間で父親と2人で寝た。父親が寝たあと、こっそりおばあの寝ている隣の部屋へ。おばあと2人きりで向い合い、昨日皆の前では言えなかったことを言った。ありがとうございました。今まで本当にありがとうございました。と声にだして何度も言った。人は本当に泣きじゃくると嗚咽で口を閉じることができないらしい。服とズボンがヨダレと涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった。
翌日の朝、目が覚めると隣に父親はおらず、代わりにとなりの部屋から鼻をすする音が聞こえた。

通夜と葬式を終え荼毘にふし、東京へ戻ってきて仕事を再開してしばらく経つがまだ悲しい。実家に帰ってももうおばあがいないということがよく分からない。よく分からないな。この後もうずっとありがとうございましたとしか言えないんだろうと思う。

IMG_1897.jpg

投稿者 takeyama : 02:35 | パーマリンク